旅行記(02年9月)


 長女がベルリンで結婚して一年。ドイツにまた行って見たくなった。 前回聴けなかったベルリンフィルの演奏も聴きたい。 訪れたい地名を思いつくままに挙げるとヒルデスハイム、ゲッティンゲン、 コブレンツ、トリアー、ストラスブール(仏)、ヴュルツブルグ、バンベルク・・・。 妻と二人で列車の旅をするつもりであった。 ほかにも行きたいところはいくらでもあるが、2週間程度の弥次喜多道中では このうち何ヶ所まわれるか。  娘にEメールで伝え、さらにその後のやり取りの結果、結局 娘婿マーティンの運転するレンタカーで、ドイツを反時計回りにざっと一周することとなった。 一行は娘夫婦、われわれ夫婦、それに千葉に住む二人の姉を誘って6人。 ベルリンを起点として上記の街以外にいくつものポイントを巡る案を マーティンが推敲を重ねて作ってくれた。

9月5日。関空からアムステルダム経由で夕方ベルリン空港に降り立つ。娘夫婦の出迎えを受け、 マーティンの案内で彼の母ヘルガの家(ベルリン郊外)にタクシーで向かう。 ここでまず3泊させてもらうこととなる。 姉2人は別便で少し遅れてベルリンに着き娘の案内でホテルへ。

9月6日(ベルリン)
 朝食後ヘルガの案内でバス電車を乗り継いで市の中心部へ。そこで姉二人・娘と落ち合う。 今日の予定は娘の案内での市内観光。まずペルガモン博物館に入る。ここは前回(4年前)にも入った。 このあたりは博物館島といわれ4ッの博物館がひしめいているが、今は総合的な再編成工事が進行中で 残念ながら入れないところが多い。昼食後テレビ塔にのぼる。 ケーテ・コルビッツの彫刻(母子像)一体だけ置いた展示館も見る。 連邦議会議事堂屋上のガラスのドームなども見学しポツダム広場まで歩く。 前は工事現場であったが今は超モダンなゾーンにすっかり変身している。 その後、娘たちのアパートに行き、マーティンが一日かけて腕を振るって準備してくれた夕食をとる。 狭いテーブルに6人がついて、次から次へと出てくる熱々のコース料理に舌鼓をうつ。鹿の肉などとてもうまかった。

9月7日(ベルリン)
 今日の予定はわれわれ二人はヘルガ、マーティンの案内で市内見物の続編。姉二人は娘の案内でポツダム市の サンスーシー宮殿を見学。夕方ポツダム広場で合流して夕食後、念願のベルリンフィルだ。 前回は建物の周辺をむなしく歩き回るだけであった。 しかも本日の公演は、イギリスからサイモン・ラトゥルがベルリンフィルの芸術監督に就任しての 初公演である。ベルリン市内の至るところで彼を歓迎するポスターを見かけた。 ヘルガもクラシック音楽が好きで、彼女に導かれて4人がわくわくしながらホールに入る。 ヘルガによると政治家も何人か来ていてワイツゼッカー元大統領の姿も見たとのこと。 日本人らしき姿もちらほら。席は舞台の奥の席。指揮者は正面からよく見える。 曲は現代曲とマーラーの交響曲5番。 どちらもすばらしい演奏だった。

 それにしても日本から別々に来た4人をヘルガ、マーティン、娘の3人が絶妙の連携プレーで エスコートしてくれてありがたい。

9月8日(ベルリン⇒ヒルデスハイム⇒ゲッティンゲン泊)
    あさ、昨年日本での結婚式のため娘たちが来日した時のビデオやアルバムを見せてもらう。 11時半、レンタカーに乗り込んで6人で出発。3時、世界遺産のヒルデスハイムに着く。 ここでの目玉は大聖堂と聖ミヒャエル教会だ。教会の塔の上から街全体が見わたせる。 また中央広場に面した木組みの建物(6階建て)の内部も見学できて面白かった。
 ゲッティンゲンに着いたときには 日が暮れていたがホテルから散歩にでかける。ゲッティンゲンは大学の街で ノーベル賞受賞者を30人以上も輩出している。グリム兄弟もここで教鞭をとった。 マルクト広場にはガチョウ姫の像がある。旧市街は歩行者天国になっており、 風格のある木組みの家が立ち並ぶ。由緒ある旧市庁舎地下のラーツケラーで食事をとる。


9月9日(ゲッティンゲン⇒ハン・ミュンデン⇒コブレンツ⇒ザンクト・ゴア泊)
 朝、ゲッティゲンを再度ひと巡りしてコブレンツに向かう。 途中ハン・ミュンデンに立ち寄る。この町のことは知らなかったが、マーティンが以前来たとのこと。 二つの川の合流地点にあり家族でキャンプする人も多い。 私の好きな木組みの家がいっぱいだ(500以上あるらしい)。
 コブレンツに着いた。ライン河とモーゼル川とはここで合流する。 まずライン東岸のエーレンブライトシュタイン城砦に登る。 ここからドイチェス・エックほか合流点一帯が一望できる。 ドイチェス・エック(ドイツの角)に行ってみると、そこはまるで船の船首みたいだ。 ガイドブックによると近くにメッテルニヒ(ナポレオン戦争時代のオーストリアの宰相)の生家か あるらしいのでそれを探す。やっと見つかったが外壁に表示があるだけだった。
 ドイツは中世以来ながらく300余の領邦に分かれており ライン河流域は、いち早く統一国家をつくったフランスの軍隊によって何度となく侵略され蹂躙された。
 ザンクト・ゴアではホテルを出てライン河畔を散歩する。河岸はキャンピングカーが連なっている。 それぞれ重装備で、日本と違い長期滞在中のもよう。 夕食時にフェーダーバイザー(熟成完了直前のワインで、この時期の産地でしか飲めない)を飲む。 フルーティーでとても美味い。(このあと各地でこのワインを飲むことになる。)

9月10日(ザンクト・ゴア⇒バッハラハ⇒ライン下り⇒レンス⇒エルツ城⇒ベルンカステル・クース泊)
 ラインを少し上流のバッハラハまで車で行き、日本からの4人がKDの観光船に乗った。 雨が降ったり止んだりであいにく天気は良くない。船内は日本人のツアー客が大勢いたが、 ローレライ、ねこ城など有名なポイントを過ぎると早々に降りてゆく。 われわれもレンスで下船。先回りした娘夫妻が車で待っていてくれる。再び車に乗ってモーゼル川をさかのぼる。 途中エルツ城を見学する。城は川から離れた山中にあり、主の家系は中世以来800年も 続いているという。
 夕刻ベルンカステル・クースに着く。この町も日本にいるときは知らなかった。 木組みの家に取り囲まれたマルクト広場あたりをうろつき、 ラーツケラーで食事をとる。



9月11日(ベルンカステル・クース⇒トリアー⇒ウォルムス泊)
 対岸のワイン博物館など見学して出発。昼過ぎトリアーに着く。 まず古代ローマの遺跡ポルタ・ネグラ(黒い門)を見る。堂々たる建造物である。 古代ローマ遺跡としては大浴場跡(カイザーテルメン)も地下通路が現存していて面白い。 円形闘技場跡もある。後のものではロマネスクの大聖堂、それと一体になったゴシックの聖母教会など。 最後にやっと探し当てたカール・マルクスの生家は閉館時刻直前で、内部を見ることができなかった。 世界史を大きく動かしたこの巨人も、ソ連邦が解体してしまった今では色あせた感がある。 それにしてもカトリックの牙城とも言うべきこの町がマルクスを生んだというのも歴史の皮肉だ。
トリアーに別れをつげて宗教会議で有名なウォルムスに向かう。 壁に蔦の絡みついたホテルに着いたのは夜9時だった。



9月12日(ウォルムス⇒ハイデルベルク⇒シュパイアー⇒ストラスブール泊)
 あさ大聖堂に寄り、ルターを中心にウィクリフ、フス、サボナローラなどが周囲を取り囲む 記念碑を見たあと、ネッカー川沿いの大学都市ハイデルベルクに着く。 城跡の裏側に車をとめて城壁のテラスからの展望を楽しむ。そのあと巨大酒樽や薬の博物館など さらに学生牢を見物。壁には牢に入れられていた学生達が誇らしげに自分の名前や顔を書き残している。 なぜか顔はすべて横向きの黒いシルエットである。この町にいると昔よくレコードで聞いた ドイツ学生歌が思い起こされる。
 次に訪れたシュパイアーでは 4本の尖塔を持つドイツロマネスク様式の大聖堂(世界遺産)に入る。地下には歴代 神聖ローマ皇帝の石棺がある。
 その後さらに上流に向かいラインをわたる。 橋を渡るとストラスブール(フランス)だ。 予約していたホテルに着いて マーティンが受付の女性とチェックインの交渉をするがどうもスムーズにいかない。 やっと部屋の鍵(ツインルーム3部屋)を受け取り、それぞれ荷物を部屋において 鍵をかけ食事に出かけようとすると、今度は別の男が現れフランス語でなにか まくしたてる。再びフロントでマーティンが交渉したが、むこうは現金で前払いせよと言ってるらしい。 仕方なく払ったが領収書もくれない。これまでに泊まったドイツのどのホテルでも こんなことはなかった。すべて出発時にカードで払った。もちろん領収書もくれた。 ことばの行き違いもあったろうし、たまたまこういう例に遭遇したということか。 国民性の違いなどとは言うまい。
 しかしストラスブールはもともとドイツ人の町である。言葉(アルザス語はドイツ語の方言)も 文化も街のたたずまいも。それが国籍が変わって長年経つとこうも変わるのか? アルサス、ロレーンの2州(ドイツ名はエルザス、ロートリンゲン) は30年戦争後のどさくさにまぎれてフランスのルイ14世 がドイツ(神聖ローマ帝国)から奪い取り、ナポレオン戦争を経て、普仏戦争でドイツ が奪い返し、その後も独仏間で奪い合いが続いた。 ドーデーの小説”最後の授業”が有名だが、それは歴史の一コマに過ぎない。 もっとも統合されてEUとなった今は国籍はあまり関係なくなった。

9月13日(ストラスブール⇒黒い森⇒ローテンブルク泊)
 昨夜は不快な思いをしたが、今朝いたホテル従業員はふつうであった。 食堂で部屋番号を聞かれたので、(部屋の鍵を見せれば済むのに)フランス語で答えると ちゃんと通じた。プチフランスなどストラスブールは美しい町である。 昨夜のレストランでの食事も美味かった。 レストランで皿の下に敷いてあった、町の絵地図を頼りにあちこちうろつく。 もちろんカテドラルも見る。アルザス博物館もおもしろかった。
 ストラスブールからドイツに戻って黒い森(シュバルツバルト)を横断する。 京都の北山を思わせる雰囲気だ。途中のベンチで一服しパンやソーセージで昼食をとる。 その後、ウルムに向かう予定であったが交通渋滞のため ローテンブルクへ直行することになる。ウルムに寄っておればネルトリンゲンや デュンケルスビュールを通ってローテンブルクに入れると期待していたのだが それはダメになった。8PMホテル着。夕食後さっそく街を歩く。 ホテルから市庁舎前広場まで5分とかからない。

9月14日(ローテンブルク⇒クレクリンゲン⇒ビュルツブルク⇒ローテンブルク泊)
 ローテンブルクは中世の雰囲気を強く残しており、日本人に最も人気のある町だ。 しかし思ったほど日本人が多くはない。 1人で市庁舎内部を見物する。マイスタートリンクの場面などいろいろ展示してある。 鐘楼にも登ってみる。聖ヤコブ教会にはリーメンシュナイダーの傑作”聖血の祭壇”がある。
 今夜はビュルツブルクに泊まり明日バンベルクを通ってドレスデンに向かう予定だったが、 時間があまりないので今日中にビュルツブルクに往復してローテンブルクに連泊し、 バンベルクは諦めることになった。
 ローテンブルクからロマンチック街道を北上してクレクリンゲンに立ちよる。 ヘルゴット教会でリーメンシュナイダー制作の祭壇”聖母マリアの昇天”を見る。 更に北上してビュルツブルクに至る。レジデンツの内部は見るべきものが多い。 ローテンブルクに戻って中世犯罪博物館を見る。拷問道具が嫌というほど展示してある。

9月15日(ローテンブルク⇒ドレスデン⇒ベルリン)
 ドレスデンは遠かった。1時半に着いた。この街は4年前ベルリンからプラハまで 夜行バスで行った時真夜中に通りかかった。街にはエルベ川氾濫の爪跡が生々しい。 敷石がごろごろ転がっていたり、建物の地面から人の頭の高さまで水に浸かった 痕があったり。まずツビンガー宮殿に入る。王冠を被ったような門がユニークだ。 庭園は立派だが、水害のため建物の中には入れない。他にゼンパーオパー劇場、 カトリック宮廷教会、レジデンツ城などがこの地区に集中している。レジデンツ城の外壁には マイセン磁器タイルで描かれた”君主の行列”という長さ100Mの壮大な壁画がある。 少し離れて聖母教会が再建中だ。アルベルティーヌム美術館に入る。 中はザクセン王家の財宝と美術作品が目白押しだ。
 ドレスデンに別れをつげてベルリンへ。ヘルガ宅で日本人4人が泊めてもらう。 われわれが7日に聴いたベルリンフィルの演奏会がTVで放映され、その録画を見せてもらう。 ポディウム席のわれわれが映ってないか目を凝らすが、やはり確認できない。

9月16日(ベルリン⇒日本)
 今日は帰国の日だ。マーチンの姉ザビーネが男の子ヨークを連れて会いに来てくれた。 ヨークは人見知りせずとてもかわいい。ドイツ人一家に別れをつげて、 われわれ夫婦と娘がタクシーで空港に向かう。 姉二人は時間があるので、ヘルガの案内でデパートなどで買い物をして帰国する。 走行距離2000KMに及ぶ旅は終った。 ヘルガと娘夫婦には大変世話になった。

                                            (完)                  


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