2003年11月
わが”肺がん”闘病記
 肺がん手術後5年が経過した。
”今後5年間、経過を観察して問題なければ、その後も大丈夫。 5年間は通院してチェックを受けること。” 退院前に医者からこう宣言された。 そして何事もなく5年経った。ようやく晴れて無罪放免というわけだ。
 それにしても病気とほとんど縁のなかった私が、どうして肺がんなどという 恐ろしげな病とかかわりあうことになったのだろう。 そもそも本当に肺がんだったのか?

<発端>
 定年退職前最後の定期健康診断で、”肺に影あり。要経過観察”という結果が出た。 タバコは吸わないし、こころあたりは何もない。 とりあえず近所の内科医院でCTスキャンによる検査を受けた。 ”確かに影(長径2〜3センチくらいの楕円形?)があるが、 それは過去に何らかの病があってそれが自然治癒した痕だろう。 心配ないと思うが、念のため専門医の検査を受けなさい”といって 市民病院あての紹介状とCTフィルムを持たされた。 98年8月のことである。

<検査>
 数日後、枚方市民病院で診察を受けた。前と似たような検査のあと担当の内科医は、 今度は気管支鏡検査を受けろという。空気しか入ったことのない肺に、カメラ付きの管を入れるなど とんでもないことだ。数日間ほうって置くと勤務先にまで医者から電話がかかってくる。 それに当時8月末から9月前半にかけて定年退職記念のドイツ・チェコ旅行を予定していた。 結局帰国後の9月末、1週間検査入院して気管支鏡や脳と腹部のCT検査を受けた。

 退院予定日の朝、検査結果の説明があることになっていたが、ベッドで長らく 待たされる。昼前になってようやく診察室に呼び出され  ”いろいろ検査をしたが問題なしとは言い切れない。更に骨の検査をする必要がある。 ここにはその設備がないので 別の病院でその検査を受けるように。すでに予約はしておいた。” と紹介状を渡そうとする。 これまでの検査の連続には、かなりうんざりしていた。 気管支鏡を飲んで苦しい目にあって、結局なにも判らなかったではないか? それは無意味であった。 これ以上むこうの言いなりに 検査を受け続けるのは真っ平である。患者のためでなく医者または病院の都合で検査漬けにする気か?  いったいなぜ骨の検査などせねばならないのか? 自分の身体のことは自分で決める。当然自分で責任も持つ。 断固拒否したが敵は強硬である。 ”うん”と言うまで帰さないという態度だ。 なんのかんのと言い張ってついにそのまま1週間ぶりに帰宅した。

<癌?>
 帰宅してすぐ妻にいきさつを話した。妻は黙って聞いていた。 その夜おそく話があると言って妻が私の部屋に入ってきた。かつてないことである。 妻がいうには、きょうの午前中医者から電話で、話があるとのことで病院まで呼び出された。 急いで病院に行ってみると、”実はご主人には癌の疑いがある。さらに検査を受けてもらうが心しておくように”  とのことであった。そして帰宅後、再度電話があって、”ご主人を説得することに失敗したので 奥さんから説得してほしい” とのことであったらしい。 うかつにもこの時はじめて医者は癌を疑っていることに気づいた。 それにしても直接本人に言えばいいのに、なぜかくも迂遠なことをするのか?

 結局数日後、紹介された別の病院でアイソトープによる骨の検査(骨シンチグラムというらしい)を受けた。 やはり結果に異常はなかった。骨に転移してなかったということだ。 医者いわく ”まだシロとは言えない。今度は身体に3個の穴をあけて 一つからカメラを、他の二つからはマジックハンドのようなものを入れて、モニターを見ながら 問題の部分を切り取って検査する必要がある” という(胸腔鏡下肺生検というらしい)。 さらに、”生検の結果異常が見つかれば、そのまま右肺上葉(うえ3分の1)を切除することになる” とも言う。 ありもしない癌が見つかるまで患者の身体を切り刻もうとする。これではイラクに対する ブッシュのやりかたと同じだ。

<セカンドオピニオン>
 しばらく考えることにして帰宅した。この医者の言う通りにしていいのか?  知人に相談するとセカンドオピニオンを求めるべきだという。 しかし別の医者が別のことを言った場合、どちらを採るかをどうして決めるのか。 こちらは素人である。 そこで大阪市内で小児科医をしている兄に相談しに行った。 場合によっては兄が以前勤務していた阪大病院への紹介状を書いてもらおうとも思いながら。 ところが兄は近くで内科医をしている甥(兄の息子)のほうが適切なアドバイスができるという。 小さい頃遊んでやったりもした甥とは、医者と患者という立場で十数年ぶりの対面となる。 大丈夫やろか。持参したCTフィルムを見ながら甥いわく、癌は早期発見早期手術が 一番だ。まだ早期だから十分間に合う。肺を半分取っても10年生きる人もある。 病院については難病なら大学病院だが、肺がんのようなポピュラーな手術なら市民病院 くらいがちょうどよい。などと簡単に言ってくれる。

<入院>
 結局、四面楚歌の声を聞く思いで枚方市民病院へ入院することになった。 入院とか手術とかを一度経験してみたいという気もないではなかったし、まいいか。 なるようになれ。人間、一度は死ぬ。二度は死なない。 当時、病気で倒れた、子供のない叔母(叔父の妻)の面倒を見ていたが その後死亡し、喪主として葬式を済ませ一族の出身地に 埋葬をすませたのだが、その翌日の10月30日に入院した。
 入院後は胸部外科の担当となった。担当医師・看護婦のほかに見習いの看護婦が ついた。部屋は6人部屋である。 ところが手術予定日がなかなか決まらない。 やっと決まった予定日は11月12日だ。それまでの12日間何をせよというのか?  手術前に必要な検査もあろうが、通院で可能なはずである。 どうも病院というところは患者を、必要なくてもできるだけ長期間 滞在させようとするところらしい。 その間したいこともできないし部屋代もかかる。結局12日のうち半分は 自宅で外泊?! した。そして山歩きや写生会に行ったり映画を見たりした。 この世の見納めになるやも知れぬ。死ぬにしても願わくは壇ノ浦で入水した平知盛のように  ”見るべきほどのことは、見つ” という心境で死にたいものだ。

<手術>
 手術3日前にカテーテルによる胸部血管造影検査を受けた。素っ裸にされ体毛を剃られ 麻酔をかけられてベッドに横たわる。まるで因幡の白兎だ。こうなったら人間、独裁者でも極悪人でも、 碩学でも聖人でも深窓のお姫様でもみな一個の物体に過ぎない。 麻酔医の診察も受けた。その麻酔医たるや街なかで見かけるフツーの若い女性と変わらない。 また心配になってくる。 部屋は個室に移った。 手術前日には切る部分(直径1pの三つの穴と腋から弧を描く20〜30cmほどの線など) にマジックで印を付けられたうえ入浴した。 手術前の心得という印刷物も渡された。それには手術後はこんな姿になりますという 図が載っていた。それによると身体から数本の管が出ている。胸部から血液を出す管、 尿の管、鼻から胃に通じる管、点滴や酸素マスクなど。これがまたショックだった。

 当日、朝9時に手術室に運ばれた。妻と親戚の二人の女性が付き添ってくれた。 麻酔ですぐ意識を失い、手術室内でのことはまったく記憶にない。 気がつくと午後5時だった。 聞くと生検の結果やはりがん(高分化型管状腺癌)があったので、 そのまま手術に移行したとのこと。やはりそうか。しかし済んでしまった。 妻たちは切り取った部分を見せられ、これががんであると説明を受けた由。

<術後>
 術後一週間は、胸に差し込まれたチューブによって、血液の溜まった容器に繋がれている生活だった。 10日目に自宅まで歩いて帰った。普通なら30分のところ40分かかった。 2週間目には抜糸した。 入院のついでに大腸の内視鏡検査も希望して受けた。 眼科では網膜はく離をレーザーで固定する治療もうけた。 食事は悪くなかった。 またリハビリのため地下から6階まで日に何度か階段を上り降りした。
 それにしても病院内が禁煙でないのは困ったことだ。夜中に病室の窓を開けてタバコを吸う患者がいる。 談話室はまるで喫煙室だ。看護婦に苦情を言ったことがあるがどうも言葉を濁す。 医者や看護婦にもタバコを吸う者がいるようだ。病院こそ真っ先に全館禁煙にすべきだと思う。
 術後、当時週2回通っていたドイツ語教室(ゲーテインスティテゥート)に通えないので 辞書、テキストなど持ち込んで自習した。また癌についての本も何冊か読んだ。

<がんもどき>
 その中で興味深かったのが、近藤誠著 ”患者よ、ガンと戦うな” という本である。 これによると世にいう癌には2種類ある。一つはほんまもんの癌、もう一つは癌に似て 非なるもの(”がんもどき”と著者はいう)である。本当の癌は転移する。 これを検査などで早期発見しても、その時点ですでに転移しており、手遅れであり死に至る。 ”がんもどき”は転移しない。従って放置して大丈夫。つまり早期発見・早期手術は無意味だ というのである。
 癌は最初は細胞一個(直径0.01mm)である。 それが2分裂を繰り返して増殖する。検査で発見しうる大きさは直径1cmである。 つまり発見されたときには、直径が既に1000倍になっている。直径が1000倍ということは 体積つまり細胞の数は、1000の3乗で10億個である。2の10乗がほぼ1000であるから 10億は2の30乗である。従って一個の細胞が2分裂を30回繰り返すと直径1pになるという計算になる。 細胞は2〜3ヶ月で分裂するので、30回分裂するには5〜7.5年かかる。 本当の癌なら5年以上も経ったら必ずすでに転移している。肉眼でわかる大きさになっても 転移しなかったものは、そもそも転移しないという。

 私の場合、腹部にも脳にも骨にも転移していなかったのだから、”がんもどき”だったということになる。 つまり切られ損であった。 痛い目をしただけだ。手術ミスなどがなかったことが不幸中の幸いであったといえる。  この病院は当時、数々の医療事故を起こし、のちに新聞紙上を何度もにぎわした。 癌の手術の際、生検の結果癌でないとわかった場合でも、それを無視して外科医(私を担当した 医者ではないが)が手術を強行したというのだ。こういったことが何度もあったらしい。 これはミスでなく故意である。

<退院その後>
 12月7日退院した。1ヶ月足らずの入院生活であった。もっとも半分以上は自宅に帰っていたが。 退院前に、抗がん剤による治療を今後受けるかどうか聞かれたがもちろん断った。 右肺の3分の1(全体の5分の1)を切除したのだから、当然肺活量も減る。 退院後はゆるやかな坂道を登るときでさえ動悸がした。 毎年参加していた北海道でのスキーマラソンは止めてしまった。 翌年8月中央アルプスに登ったが、駒ヶ根のケーブル終点で降り山頂に向かって歩き始めたところ、 10〜20分登るたびに休憩しないとそれ以上歩けない。これには愕然とした。現在はこんなことはない。 退院後5年間、初めのうちは2ヶ月ごとに、終わりのほうは半年ごとに病院に 検査を受けに行った。何の異常もなかった。切らなくてもいいものを 切っただけだから当然であった。



以上は03年夏に予定原稿として書いたが、果たしてそのとおりになった。 めでたしめでたし。

歳あら た癌手術より5年経て(04年1月)

                                                     (完)

click here

前のページに戻る。

最初のページに戻る。

inserted by FC2 system