55- + 私の定年後・ピースボート船旅  

105日間世界一周船旅日記(2017年4〜7月)

きっかけ
ある日、街を歩いていると1枚のポスターが目にとまった。 それは”ピースボート地球一周船旅”のPRポスターだった。気にはなったが通り過ぎた。 それから何日経ったか、あるうどん屋で同じポスターをまた見つけた。 それにはポケットがついていてその中に数枚のパンフレットがあり、その1枚を持ち帰った。 依頼すると資料が郵送されてきた。その後説明会に行き 仮申込みをして 船の見学会にも参加し、ついに本申込みをし金も払ってしまった。 2015年12月のことである。

私は旅行は好きだが船旅は好まない。 訪問先の町で小船に乗って観光することはあるが、豪華客船で何泊も移動しながら観光する、 そんな旅は毛嫌いしていた。船内では着飾って気取った会話や食事をしたり、英語が飛びかう。 ショーを見たり社交ダンスをしたり、おまけにカジノがあったり・・・ 寄港地での観光はおまけにすぎず、こんなのは社交であって旅行ではない。

パンフレットを読み、話を聞くとピースボートのクルーズはそれとは違うらしい。 船内では個室・相部屋などによって価格は違うが、それ以外のランク分けはない。ドレスコードもない。 庶民的で自分に向いていると思う。船は3.5万トン、築30年超の老朽船?漂流したこともあるそうな。 800から1000人の乗客はほとんど日本人。高齢者が多く1人参加も多い。リピーターが多いというから驚く。 食事は和食がメインのもよう。 船内では盛りだくさんのイベントがあって退屈しないと聞く。何よりも地球一周というのがいい。 価格はリーズナブルといえそう。だが寄港地でのオプショナルツアーが高いのが難点だ。

コースの選択
ピースボートでは毎年地球一周の旅を夏、秋、冬の3回やっていて、それ以外にも短い船旅がある。 当初2016年12月横浜・神戸出発の南回り(アフリカ、南米、南極など)コースを申し込んだが、その後悩んだうえで 2017年4月出発の北回り(スエズ運河、地中海、北海、バルト海、北極、パナマ運河など)に 変更した。

イースター島、ガラパゴス、ヴィクトリアの滝、パタゴニア、ギアナ高地、南極大陸など南周りコースは 豊富な自然が魅力だ(もっともこれらすべを訪れたらオプショナルツアー代金が高額になる)。 しかし私はユーラシア大陸(特にヨーロッパ)の歴史に触れたい。 それにスエズ運河、ジブラルタル海峡、パナマ運河を通過しないと地球一周した気分にはなりにくいと思う。

北回りコースは23の寄港地を回る。北欧が重点でそのうち9か所。 寄港地ごとに複数のオプショナルツアーがあってあらかじめ選択することになっている。 港を起点として徒歩で観光できそうな比較的小さい町では、ツアーでなく自由に行動したい。 そんな町としてヘルシンキ、タリン(エストニア)、リガ(ラトヴィア)を選んだ。 サンクトペテルブルグは以前訪れておよその様子はわかっているので、今回は気ままに歩いて片言のロシア語をしゃべってみたいが、 ここではビザなしの個人の自由行動は認められていないので諦めざるをえない。
オプショナルツアーには宿泊つきのものもある。中米グアテマラでマヤ文明遺跡の ティカルは1泊ツアーで訪れよう。

問題点
105日も旅行するとなると、当然ながらその間、日常的にやっていたことができない。
まずはコーラス(OSC)。演奏会が8月6日なので帰国後本番まで10日しかない。 その間、団としての練習には参加できず船上で自主練習するしかない。 そのため練習用CDなどをICレコーダーに録音し、歌詞カードも作成した。

もう一つの問題は眼科治療。
加齢黄斑変性の治療を4年前から受けていたが、2月に網膜に大量出血が起こり 3月初めに1週間入院し手術を受けた。その結果手術前の状態に戻ったが、 いつ再び同じことが起こるかわからない。旅行中に起こったら治療を受けられない。 乗船している医療スタッフでは眼科は対象外である。 せめて十分な?量の薬を持って行くことにした。
ほかにもいろいろ無理を重ねることになる。


 
















* 以上の画像はピースボートのweb siteから借用したものです

* 続きはクルーズ中に更新していきます。



4月13日(木曜日)(第1日)
いよいよ出発の日が来た。 ショルダーバッグと布製のスーツケースを持って神戸港に向かう。 それとは別に段ボール1個が宅配便で船に届いているはず。
絵の仲間3人(女性)が神戸港で見送ってくれるというのでPM1時着を目指して神戸・三宮に向かう。 電車の中で眼鏡を外して目薬をさす。阪神三ノ宮駅ホームに 降りた瞬間、”おじいちゃん、眼鏡!”の声とともに、座席に置き忘れた眼鏡を渡される。 この親切な男性にからくも救われた。
JR三宮で見送りの3人と落ち合い食事をともにする。ポートライナーでフェリーターミナル駅へ。 出航は6時。それまで時間がありすぎるので、船に乗り込む時点(3時半)でしばしの別れの言葉を交わす。



乗船受付でパスポートを預け、かわりにIDカードを受け取る。 このカードがルームキーである。 案内されて船室(4人相部屋)に着き、横浜から前日に乗船した2人と合流した。 ルームメイトはともに小生より10年くらい若い。 今後仲良くやっていけそうだ。

部屋の様子は以前、船内を見学したことでもありわかっていた。 夕食の時刻は5時と7時に分けられており私の場合は5時となっている。 5時から夕食を始めたため出港式に間に合わなかった。 よる”船内新聞”が配布され、これには明日の場所別時間別の催し物が掲載されている。 これによって明日の各自の行動計画を立てることになる。

神戸から乗船したのは約300人で横浜乗船者は700人くらいか? これとは別にフライト&クルーズと称して日本からギリシャまで飛行機で移動し ギリシャで乗船する人たちが300人くらいらしい。 乗船者の1割くらいは中国、台湾、韓国出身のようだ。
ほかにスタッフが300人くらいか?東南アジア系が多い。


4月14日(金曜日)(第2日)
初めての朝。 朝5時に目覚ましが鳴るが、その前から目が覚めている。 8階の船尾甲板に出て6時から太極拳が始まる。6時半から15分間はラジオ体操。 6時50分から7時半までノルディックウォーキングに参加する。 大海原の真ん中で日の出を見ながらの運動は心地よい。

今日の行事としてはほかに船内生活オリエンテーション、 ウエルカムディナー。 カラカス市民オーケストラによる演奏もあった。


4月15日(土曜日)(第3日)
昨日同様、太極拳、ラジオ体操、ノルディックウオーキングをする。 この3点セットは毎日続けよう。

朝食後、8階ホール”スターライト”で”初めての社交ダンス”に参加。 ”社交ダンス”なるもの、これまで軟弱そうでなんとなく毛嫌いしてきたが、 初めてのことにこの際挑戦してみるか。時間はある。何よりも無料なのがありがたい。 毎日続ければなんとかなるかも知れない。 いつまで続くか知らないが旅の恥はかき捨てというし、やってみよう。

船にはパソコン、タブレット、ガラ携を持ち込んだ。 船内ではインターネット(wi-fi)が有料で利用できる。専用のカードを2100円で購入し カード1枚で100分使えることになっている。しかし通信衛星経由のためスピードが遅く 不安定であるらしい。
早速カードを1枚買って使ってみる。ところがこれが泥沼の入り口だった。 不慣れのため、それに通信ソフトoutlookにも問題があるのかうまくいかない。 いらいらするうちにも課金だけはされていく。家族や知人にメールしても発信されず行方不明になる。 タブレットでLINEしても相手に届かない。なぜか首尾よく届いて返信が来る場合もある。
幸いルームメイトがPCの達人でかなり助けてもらった。それでもうまくいかず カードはその後次々と6枚を購入することになる(5月24日現在)。


4月16日(日)〜18日(火)
船は台湾沖を通過。

食事についてはメインのレストランが4階にあり、9階にもビュッフェが2つある。 朝昼夜の食事はすべて4Fと9Fの2箇所でできる。メニューは和食中心で 野菜も多く安心できる。毎朝メニューが張り出されるので、それを見て決める人が多い。 若い人など2か所で食べるとも聞く。9Fの昼食は麺類が多い。 午後3時ごろ9Fでアフタヌーンティーと称して飲み物とクッキーが無料で食べられる。 アルコール類は有料。 船内には売店がありそこでの買い物はクレジットカードと連動したIDカードで精算する。

水彩画教室も始まる。

18日から日本地理クイズに参加。これは寄港日以外の毎日、1日に2回行われる。頭の体操になる。

ゴスペルシンガーのはらヒロコさんの主催する歌のコンサートの練習が始まった。 海・花・風の3つのグループにわかれそれぞれ別の歌を練習する。 私の属する花組はアメイジンググレイスを振りをつけて歌う。 合唱祭は4月25日。

ピースボートには水先案内人と称して各分野の専門家が乗船しており(乗船区間はまちまちだが)、 講演会などがある。 のはらヒロコさんもその一人。ほかには 松本仁一さん(アフリカ、中東問題専門家)、吉岡淳さん(ユネスコ)、鎌田慧さん(ルポライター)、崔洋一(映画監督)さんなど。 過去には田部井淳子、加藤登紀子・・・ 松本さんの著書”アフリカレポート”(岩波新書)はさっそく売店で買って読んだ。

またカラカス(ベネズエラ)市民オーケストラのメンバー20名も乗船している。 その大部分がベネズエラのユニークな音楽教育システム”エル・システマ”出身者だという。 このシステムについてはベネズエラに寄港したときに本部や練習場を見学する。

ある時、腕を骨折して応急措置の三角巾をし難儀している年配の女性がいた。 聞くと船が揺れた時に転倒したという。 シンガポールで下船するとのこと(・・・この人は下船・帰国したあとバレンシアで再乗船したらしい)。
船の揺れは結構あって、まっすぐ歩けないこともある。 船酔いで体調を崩す人も多いらしい。


4月19日(水)(第7日)
スペイン語講座を受けた。 ピースボートには英語とスペイン語の有料の語学講座があるが、それとは別に 時々オープンGET講座として無料の講座がある。 1回づつだがフランス語、イタリア語、ロシア語もある。それを受けよう。

また今日は第1回の航路説明会があった。今回はプーケットまでの説明で 今後も何回かあるらしい。
1時間の時差調整もあった。


4月20日(木)(第8日)
”初めての社交ダンス”講座6回目。男女ペアの講師が初めにお手本を踊って見せる。 そして生徒(40名くらい)が男女別に整列したうえで男女ペアになって基本動作を数回練習する。 号令によって1列づつ移動し別のペアを作って繰り返す。
異性と手をつなぐのは普段だと大変なことだが、この場合感情もなく機械的にやってしまう。 あの人のほうがいいなどという余地もない。 暖かい手、冷たい手、しっとりした手、乾いた手・・いろいろあるものだ。 これを続けていけばブルースとやらが踊れるようになるのだろうか。


4月21日(金)(第9日)
シンガポールに上陸。 午前中半日ツアーに参加しチャイナタウン・アラブストリート・リトルインディアなど観光し、午後は船内で過ごした。

シンガポールは日本占領中は昭南島と呼ばれ、数々の残虐行為もあったといわれている。 "「昭南島」の歴史を学ぶ"ツアーもある。
このほかにもピースボートには単なる観光ではないツアーがいくつかある。 カンボジア地雷問題検証ツアー(5日間)、アウシュビッツ訪問ツアー(6日間)、 核保有国フランスで考える「原発」など。地元の人たちとの交流ツアーも。



4月22日(土)(第10日)
マラッカ海峡通過


4月23日(日)(第11日)
プーケット(タイ)に寄港。 午後、半日ツアーに出発。
民族舞踊を見てワット・チャロン仏教寺院を見学。
そのごプロムテープ岬で夕陽を見る。







4月24日(月)(第12日)

4月25日(火)(第13日)
のはらヒロコさんの主催する合唱祭があった。小生のグループは”アメイジング・グレイス”を 歌った。

2回目の航路説明会(コロンボまで)があった。

ニラン・アンケテル講演:スリランカ内戦とは?
* 誰対誰で、なぜ起きたのか?
* なぜ30年近く続いたのか?
* 8年前に終結したきっかけは?


4月26日(水)(第14日)
このところ毎日のように時差を調整している。 船が西に向かうとき経度15度ごとに1時間戻さなくてはならない。
飛行機で海外旅行するときは2〜3回時差調整すればすむが、 船でゆっくり地球一周するとなると面倒なものだ。


4月27日(木)(第15日)
コロンボ(スリランカ)
日帰りツアーでシンハラ王朝最後の都キャンディへ。コロンボから バスで片道3時間かかる。釈迦の歯を祀る仏歯寺が有名。 この寺はスリランカの仏教徒の信仰の中心でもある。

30年間、内戦が続いていたスリランカ。シンハラ語が公用語化され、 シンハラ人が優遇される政策がとられたため民族間の対立が強まり内戦が起こった。


4月28日(金)(第16日)
コロンボを出航した後で、急病人がでて船はインドのコーチン港に引き返すという。

船がソマリア沖に近づいたので、今後約1週間、海賊警戒海域となる。 今日は海賊避難訓練だ。 また夜間はデッキは立入り厳禁であり、 船室の窓が鉄板で覆われた。うっとおしいがやむを得ない。


4月29日(土)(第17日)
このクルーズには”おりづるプロジェクト”があって原水爆の被害を2度と起こさぬよう 16の寄港地で広島・長崎の被爆者、被爆2世による証言会を計画している。 シンガポールとスリランカではすでにおこなった。 私自身も6歳のとき広島の原爆で父を亡くし、思いを同じくしている。

松本仁一講演:海賊の話


4月30日(日)(第18日)
急病人発生。下船。


5月1日(月)(第19日)
”オーケストラの演奏で歌おう”という取組みがはじまった。 オーケストラはもちろんカラカス市民オーケストラ。 曲は”アルマ・ジャネラ(平原の魂)”と”ベネズエラ”。 どちらも親しみやすいメロディーだが、ことばはスペイン語。 ベネズエラの第2の国歌とも言われているそうだ。

松本仁一講演:カラシニコフ銃


5月2日(火)(第20日)


5月3日(水)(第21日)
船の8階にピースボートセンターがあって、その前が多目的のスペースとなっており 人々が集まって来る。 そこには掲示板もあり、A5サイズの所定用紙に皆に伝えたいメッセージを書けば張り出してくれる。

曰く「スエズ運河を通過するとまもなくヨーロッパです。 英語・スペイン語だけでなくヨーロッパの他の主要言語、イタリア語・フランス語・ ドイツ語・ロシア語で挨拶くらいできればいいと思いませんか?」 という内容のチラシを手書きし今日から掲示してもらった。

チャンヘン講演:北朝鮮、行ってみたらこんなとこ


5月4日(木)(第22日)
今日一日、自衛艦”てるつき”がピースボートの護衛についた。 ヘリコプターも飛んだ。

松本仁一講演:アラビアのロレンスがしでかしたこと
池田香代子講演:戦争の作り方
民族衣装ファッションショウ


5月5日(金)(第23日)
シェーバーを充電しようしたら壊れてしまった。 変圧器を使う必要があったらしい。 ホテルに置いてあるような髭剃りは持っているけど、怪我をしそうで怖くて使えない。 やむを得ず売店で乾電池式簡易髭剃り(2500円)を買ったて使ってみた。 使いずらく剃りにくい。これであと80日持つだろうか?

海賊対策がようやく解除された。

カンボジア地雷検証ツアー報告会


5月6日(土)(第24日)
船内では新聞・テレビもなく日本で何が起こっているのかわかりにくい。 インターネットも実質上使えない。 それがいいのだという人もいる。

各船室に旧型テレビはあるが、映りが悪い。 見られるのは船の前方海面の画像、地図(海図?)と現時点の船の位置、 各船室への伝達情報、古い映画など。

8F廊下にニュース用掲示板があって、1週間遅れくらいの2〜3日分の新聞(朝日?)の記事が A4用紙に大きめの活字で手打ち?入力しプリントしたものを掲示している(50〜60枚)。 それを読めばある程度世の中の状況はわかる。

8F には若干の本とそれを読むための席もあって、 ある時、見ると1ケ月分くらいの新聞(朝日、日経、スポーツ紙)がドサッと置いてあった。 その中で一番新しい日付が2週間くらい前である。みんな貪るように読んでいる。

松本仁一講演:紅海、私たちの先祖が渡った海


5月7日(日)(第25日)
洋上夏祭り


5月8日(月)(第26日)
今日はスエズ運河を通過する日である。 朝5時船内放送によってデッキに出る。前方に運河入口らしきものが見える。 日の出を背景に写真を撮ったり、双眼鏡をのぞいたり。 右にシナイ半島、左にアフリカ大陸を見ながら甲板の外辺をぐるぐるウオーキングする。

多言語勉強会?の掲示を見た女性2人組から問い合わせがあり、話し合った。 当方の意図は、この4言語のうちいずれかを勉強している人が中心になって 他のメンバーに教えあうということであった。

ところが彼女たちの目的は異なっていて、 文字通りのあいさつの言葉(こんにちはなど10語くらい)を今後訪問する各国の言葉で調べてカタカナで リストアップし、訪問時に実際に使ってみようというものだった。

そこで結局、”地球の歩き方”の付録などから抜き書きしたリストを作ることになった。 各国とは4国以外にギリシャ、ポルトガル、デンマーク、エストニア、ラトヴィア、 ノルウエー、スエーデン、フィンランド、アイスランドである。

当方の意図とは異なるが、その後一緒にそのリストを作る作業をすることになる。


5月9日(火)(第27日)
皆で歌を歌うグループがいくつかあって、そのうちふたつに参加している。 ひとつは”わせねでや(忘れないで”)”の歌をうたう。 これは東北地方の地震からの復興を応援する趣旨。 この歌は以前、のはらヒロコさんの指導で歌ったもののひとつ。 日本では加藤登紀子さん、平原綾香さんがCDを出してるとのこと。

もう一つは”おりづる”プロジェクトの一環で、 原水爆禁止で平和を守ろうという趣旨。 歌は”大地讃頌””花は咲く”で4部合唱。

松本仁一講演:南スーダン、自衛隊撤退の真相はこれだ!


5月10日(水)(第28日)
いよいよヨーロッパ。エーゲ海を行く。 左右に島々が見える。

今日の寄港地はアテネの外港 ピレウスだ。 ギリシャは初めてであるし、治安もよくないので 標準的なオプショナルツアーを選択。

朝10時に集合して下船し4台のバスに分乗して出発。 アクロポリスの丘の近くでバスを降り徒歩で見学。 階段が大理石のため滑りやすい。古代ギリシャ文明の中心地だけあって立派な遺跡である。 また観光客が多く迷子になりそう。

ピレウスから船全体で300人乗り込んでくるという。 私の部屋は4人部屋を3人で使ってきたが、ピレウスで新人ひとりが加わると 思っていたが何事もなかった。


5月11日(木)(第29日)
予期に反してピレウスから新たなルームメイトがないことは、 4人部屋を3人でこれまで通り使えるのでラッキーといえる。 私は”下段指定”(料金6万円)したので最後まで下段が使える。 すぐ上の段のベッドが無人なので畳んである。
ベッドを使うとき上からの圧迫感がないのはいいが、 その代わり小物を置く場所がない。仕方なく小物は布団の上に置かざるを得ない。 そのせいで眼鏡をかけたまま寝る癖がついてしまった。

避難訓練あり


5月12日(金)(第30日)
昨日に続き体調はよくない。
正露丸を服用する。(2〜3日後、回復した)

風邪をひいている人も多い。 ルームメイトの2人も一度ひいてのち、長引いている。

吉岡淳講演:ギリシャの神話と叡智
        古代ローマ文明


5月13日(土)(第31日)
今日はイタリア・サルジニア島の最大の都市カリアリに来た。 ”水先案内人”吉岡淳氏同行のツアー”謎の巨石文明”ヌラーゲ・スウ・ヌラクシ”遺跡と古代ローマ時代の円形劇場”に参加。 吉岡氏の解説付きかと思いきや単なる同行であった。また古代ローマの円形劇場は柵が閉まっていて 周辺から眺めるだけであった。 この遺跡は世界遺産だけあって見ごたえがあった。


5月14日(日)(第32日)
吉岡 淳講演:ヨーロッパ 文化の融合
松本仁一講演:地中海、右は天国 左は地獄(難民問題)





5月15日(月)(第33日)
今日の寄港地はバレンシア(スペイン)。 初めて自由行動する日となる。 水彩画講師のYさん、絵仲間のOさんと3人で8時過ぎ 船を出てバスで旧市街中心レイナ広場に着く。 バスを降りたその場所でまず1枚描く。

次いで中央市場。建物が美しく、中では新鮮な果物や野菜が売られている。 そして隣の世界遺産ラ・ロンハ(絹の交易所の意)へ。 さらに鉄道駅、闘牛場、市庁舎まで歩く。 その間ピースボートのツアーや自由行動の人たちと行き交う。  昼食はレストランのテラス席でパエリャ、ワインをとる。 食後はカテドラルとその美術館を見学。 その間に数枚のスケッチをする。


5月16日(火)(第34日)
吉岡 淳講演:ヨーロッパのワイン文化
吉岡 淳講演:ヨーロッパの建築
鎌田 慧講演:時代のいのちを見つめる
野原 啓報告:私が見たガザ



寄港日以外、毎日2回くらい地理クイズがある。これにはだいたい参加している。 範囲は多くが日本全体だが時々関東、関西、世界、歴史など。

出題者が前で60の問題を読み上げ、横一列に並んだ回答者(15〜20名)が 手を挙げて指名されたら答える。出場者は半分くらいは固定している。 これまでの小生の成績は世界、歴史、関西の場合良好だが、日本全体、関東になると 関東出身の達人2名が断然強い。

地理といっても新しくできたショッピングセンターの正式名称や最寄り駅名などが多い。 新しい情報がインプットされていない小生にとっては難しい。 出題者の問題作成能力には脱帽だ。

今夜、船はジブラルタル海峡を通過する。 9時ごろ,まだ明るい。甲板に 出てみると右手ヨーロッパ側にジブラルタルの岩山が黒々と見える。 写真を撮ったりする間に暗くなってきて街の明かりや灯台の明かりも見える。 アフリカ側の町の明かりも見える。ヘラクレスの柱の間を通過していることになる。 20数年前、スペイン・モロッコ旅行の時フェリーでここを渡ったものだ。


5月17日(水)(第35日)
大西洋を見ながら、朝いつものように甲板にて太極拳・ラジオ体操・ノルディックウオーキングをして 朝食をとる。ダンスの練習をする。
その後崔洋一監督の”映画の楽しみ方””原発列島”(鎌田慧)”大航海時代”(吉岡淳)の各講演を聞く。


5月18日(木)(第36日)
きょうはポルトガルのオポルト寄港の日だ。
ポルトはリスボン北方300km、ドウロ川河口にあるポルトガル第2の都市。 ポートワインが有名。 ギマランイスはポルトガル初代国王の生誕地。

9時半、ツアーバスで出発。 1時間かけて古都ギマランイスへ。 旧市街は世界遺産に登録されている。ギマランイス城などなかなか風格のあるたたずまいだ。

その後ポルト旧市街(こちらも世界遺産)を散策。クレリゴスの塔、サンベント駅を見る。アズレージョ(装飾タイル)が美しい。ホテルのレストランで昼食をとる。
さらにドウロ川クルーズへ。 6時半帰船。








5月19日(金)(第37日)
今日、急病人が出てヘリコプターで最寄りの陸上の病院へ搬送された。 ヘリポートがないので患者は空中に吊るされてヘリに収容された。 物好きな人は一部始終を動画に撮っていた。




5月20日(土)(第38日)
崔洋一講演:”血と骨”の世界
映画上映:月はどっちに出ている?


5月21日(日)(第39日)
早朝ル・アーブルに着く。 今日の予定はモン・サン・ミッシェルへのツアー。 モン・サン・ミッシェル(聖ミカエルの山)はヨーロッパで最も人気ある観光地だそうで 、ル・アーブルに寄港するなら素通りする訳にはいくまい。

ノルマン人(北方の人)が9世紀にデンマークからバイキングとして襲来し住み着いたことから ノルマンデイと呼ばれたが、 その何代目かの首長ウイリアム(フランス語でギヨーム)が1066年、海を渡ってイングランドを完全に征服した。

それ以来イングランドのノルマン朝は100年近く続き、次のプランタジェネット(プランタジュネ、エニシダの意)朝に 引き継がれて今日の英国(UK)に至る。つまり英国の基礎を作ったのはノルマン系フランス人だと いうことになる。彼らはフランス人と自覚し、当然フランス語(古フランス語)を話した。

100年戦争もカペー朝から続くフランス王家とノルマンデーを本拠とするノルマン系フランス人との争いであった。 ノルマンデーを本拠としイングランド王国を征服したノルマン系フランス人たちは 100年戦争に敗れてフランス本国から締め出されその後 イングランド人として生きていくしかなくなった。

イングランドに取り残されたノルマン系フランス人たちはその後ケルト系先住民族をを圧迫していく。 まずウエールズを侵し、次いでスコットランドやアイルランドを支配する。
100年戦争に敗れ、続いて起ったバラ戦争という内乱で血統が途絶えたイングランド王家(プランタジェネット朝)は ウエールズ出身のチューダー朝にとって変られた。そのあとはスコットランド出身のスチュアート朝、 ドイツ出身のハノーバー朝に変わって現代にいたる。現在のウインザー朝はハノーバー朝の呼び名を変えただけ。
つまり英国王室はノルマン朝以来、外国系である。
日本の天皇が中国人やアメリカ人であるなどということが想像できるだろうか?


5月22日(月)(第40日)
朝6時、甲板に出るとセーヌ川を船はルアーブルからルーアンに向ってさかのぼっている。 両岸の牧歌的な風景を見ながらノルディックウオーキングする。 まるでセーヌ河畔を散歩している気分だ。
朝食をとりコーヒーを飲みながら知人と(あるいは知らぬ人とも)談笑する。 いつもの光景である。 私は積極的に話しかけるほうではないが、それでも知人の輪は広がってくる。

正午ごろ船はルーアンに着き上陸準備完了。自由行動の人たちは 三々五々街に出ていく。 小生、今日はオンフルールへの半日ツアーを予約している。 オンフルールはセーヌ川をはさんでル・アーブルの対岸にある。
2時過ぎバス3台でオンフルールへ。昔栄えた旧港のあたりをクルージングする。 絵画作品でおなじみのオンフルール旧港は付近の趣のある建物群とあいまって 絵のようである。自分でも短時間でスケッチしてみる。
その後上陸して旧市街を散策、サントカトリーヌ協会、サンレオナール教会などを見て回る。 エリック・サティの 生家もあるがコースからはずれて行けなかったのは残念だった。


5月23日(火)(第41日)
今日の予定はルーアン市内観光ツアーへの参加。 8時15分バスで出発。モネの連作で有名なノートルダム大聖堂を見学する。 そのあと大時計通りを歩きゴシック建築の裁判所を見てジャンヌダルク教会を訪れる。 この教会は第2次大戦後建てられたもののようで内外部ともモダンである。

ジャンヌダルクは神のお告げを聞き 陥落寸前だったオルレアン城を取返しイングランド軍を大陸から追い出した。 しかしオルレアン派と対立するブルゴーニュ派に捕らえられイングランド軍に売り渡されたあげく 火あぶりにされた。まさにその場所にジャンヌダルク教会は建っている。 しかし歴史を感じさせない斬新なデザインで教会には見えない。 フランス国王は大恩あるジャンヌダルクを助けなかった。そして忘れ去られた 彼女を、のちにナポレオン1世が救国の聖少女にまつりあげたという。

昼食までの1時間は自由行動。これを利用して以前から故障して使えなかったマウス(パソコン用)を買いに行く。 ルームメイトが昨日見つけたという電気店を探した。 途中のレストランで道順をフランス語で尋ねた。 話が通じないまま相手(レストランの主?)の言葉は英語に変わり 最後には日本語に変わった。日本人客が多く日本語を覚えたらしい。 そのあと店を探して何とか購入できた。


5月24日(水)


5月25日(木)
水彩画教室の時間中、騒音がして窓の外にヘリコプターが人?を吊り下げて運ぶのを見た。 後で聞くと急病人が出てデンマーク?の病院に緊急搬送したらしい。

夜、崔洋一監督の指導でアマチュア劇団スターダストの試演会があった。
題して”そして船は行く”。乗客によるにわか劇団員が 中原中也の詩、いく時代かがありまして茶色い戦争ありました・・・を朗読しながら舞台を歩き回るという内容。


5月26日(金)(第44日)
早朝4時半、甲板に出る。ユトラント半島を迂回したピースボートが”ハムレット”の舞台となる クロンボー城の沖をちょうどこの時刻に通過するというわけである。 8年前、妻・長女と3人で訪れた城をこんどは海上から見る。 距離があり背後の陸地と重なって見えずらいけど双眼鏡で見るとやはり、かの城である。

7時ごろコペンハーゲン入港。今日は デンマーク最古の町ロスキレでバイキング博物館訪問のツアーに参加する。 バスで約1時間、ロスキレに着く。この付近の海底で発見された5艘のバイキング船の残骸を 復元・展示した博物館。バイキングの王?の墓の址(飛鳥の石舞台のようなもの)にも入る。 歴代国王の遺体が安置された大聖堂も見る。

バイキングの活動がヨーロッパひいては世界史に及ぼした影響は絶大で、 デンマークのバイキングはイングランドやノルマンディへ、 ノールウエイからはスコットランド、アイスランド、北米、シチリアへ、 スエーデンからはロシア、コンスタンチノープルへと及んでいる。

デンマークは今でこそヨーロッパの小国だが、その昔11〜15世紀ころは北欧の大国で、 一時期イングランドまで支配し北海帝国と称したこともあった。


5月27日(日)(第45日)
鎌田 慧講演:沖縄、希望と抵抗の島


5月28日(日)(第46日)
ラトヴィアの首都リガに入港。8時半、上陸。今日も快晴。 リガはバルトの真珠といわれる美しい街だが 小さい街で、見どころは旧市街に集中しており 歩いてみて回れる。したがって今日はツアーでなく自由散策の日とした。

8時半船を出て数名で世界遺産の旧市街へ。 1000人の乗船者が上陸すると小さい街は日本人であふれ帰る。 出発したときのグループは途中で別れたり、別の人やグループと出会ってくっついたり 離合集散を繰り返す。

まずはリガ大聖堂へ。続いて聖ペテロ教会へ。エレベーターで72mの 展望階へ上がると(9ユーロ)市内が一望のもとに見渡せる。 さらに聖ヨハネ教会へ。
昼食は店で食物や飲み物を買ってベンチですます。 その後中央市場に行く。女性はみな買い物に熱心だ。そんなに買ってどうして日本へ 持ち帰るんだろうと心配になる。 どうやら衣類など旅行中に身に着けて楽しんでいるらしい。

最後に緑豊かな公園を横切ってユーゲントシュティル建築群を見にアルベルト通りに行った。 少し遠いので途中で現地人らしい女性に地図を差し出して、ここがどこか? 目的地にどう行けばいいのか?ロシア語で聞いたところ、なぜか英語で返事が返ってきた。
これらの意匠をこらした建築群の設計者の一人はエイゼンシュテインと言って ”イワン雷帝””戦艦ポチョムキン”などで高名なロシアの映画監督の息子であった。


5月29日(月)(第47日)
明日はサンクトペテルブルグ。 5年前、ロシア(モスクワ、Stペテルブルグ、黄金の輪)をツアーで旅行した。 その時St.ペテルブルグおよびその周辺の観光スポットはひと通り見た。 だから今度は覚えたロシア語を使って街を自由に歩きたい。しかしこれは叶わない。 現地旅行社のツアーに参加しないと市内は歩けないことになっている。

そこでこの度は”ドストエフスキー罪と罰を巡る旅”に参加することにした。 ドストエフスキーは自分の作品に、現実の詳細な地名を使ってはいないが それがわかるような書き方をしている。そのためこのようなツアーが可能となる。
ゴーゴリ”外套”の主人公アカーキー・アカーキエヴィッチ・バシマチキンが新調した外套を奪われた広場も訪れたい。

鎌田慧さんの講演"混沌と幻想の街Stペテルスブルグ"を聞いた。 初めに同名の過去のNHKTVドキュメンタリー番組の映写があった。 この番組は放送時に見て強く印象に残っていたものだ。

これを書いている現在(29日PM9時過ぎ)キャビンの窓の外には 昼間のようなバルト海がひろがっている。

わくわくロシア語講座


5月30日(火)(第48日)
9時過ぎツアーは港からマイクロバスで出発。参加者は鎌田慧さんを含め17名。 センナヤ広場から最初に訪れたのは”罪と罰”主人公のラスコーリニコフの住んだアパート。 次はソーニャの家、2人が出会った居酒屋、金貸し老婆の家、ドストエフスキ旧居(博物館)。 昼食はレストランでボルシチなど。オーチン・フクースナ!
最後に文学カフェ。入口付近のテーブルにはプーシキン(蝋細工)が迎えてくれた。 これはテレビロシア語講座で見たことがある! 食事のとき少人数で鎌田さんを囲んで話もできた。 このツアーにはロシア文学・歴史に詳しい人が多く参加しているようだ。


5月31日(水)(第49日)
昨日に続く4日連続の寄港日の2日目、ヘルシンキ。 今日は小さな街で港から近いので3人で徒歩にて自由散策。 マーケット広場を経由して 途中、休憩したあと中央駅・アテネウム美術館へ。 さらにヘルシンキ大聖堂、ウスペンスキー寺院を経て帰船。 映画”かもめ食堂”の舞台となったレストランなど見て回りたかったが時間がなかった。

フィンランドはヨーロッパの中でもアジア系民族の国のはずである(エストニア、ハンガリーも同様)。 にもかかわらず道行く人の姿・顔かたちを見てもそんな風には全然見えない。


6月1日(木)(第50日)
今日は晴れ、しかし寒い。 寄港地はエストニアのタリン。フィンランド湾をはさんでヘルシンキと100kmくらいしか離れていない。 フィンランド湾の奥がサンクトペテルブルグ。 ヘルシンキ、リガ、と並んで小さい街で徒歩のみで旧市街を歩けそうなので自由行動をとる。
朝7時半船から出発。船からも見えていた世界遺産の旧市街を目指す。 港からすぐのところに 早朝なので観光客は我々だけ。 教会などまだ開いていない。店は開店準備中、 このような静かな時間帯に観光できるのはピースボートならではのことといえるか? 高台にある旧市トムペア城を目指す。 旧市街は城壁に囲まれていて要所、要所に見張塔が残る。



6月2日(金)(第51日)
4日連続寄港日の最終日。快晴。 ストックホルム。 ツアーのバス9時半出発、世界遺産のドロットニングホルム宮殿を訪れる。フィエルガタン展望台で休憩して ガムラスタン(旧市街)を散策。 帰船は4時半。

皆が上陸して観光している間に、 逆に船内のホールではスエーデンほか各国代表が参加して非核?の国際会議がおこなわれたとか。

デンマーク系バイキングが今日の英国の基礎を作ったように、 スエーデンのバイキングはロシアの骨格を作ったといえる。
その後スエーデンはデンマークと北欧の覇権を争って抗争を繰り返し勝利したが、 今度はロシアの脅威にさらされることになる。
第1、2次大戦では中立政策をとり、現在は福祉国家として安定している。


6月3日(土)(第52日)


6月4日(日)(第53日)
パソコンのセキュリティーソフト最新版をピースボートセンターで借りてインストールした。

田邉泉さんのテノールコンサートをきいた。忘れな草、カタリカタリ など。おりずるの”大地讃頌”合唱にも参加してくれるらしい。

報告会:ホロコーストから考える


6月5日(月)(第54日)
夜中に目覚めても窓の外は明るい波が見えるだけ。 真っ暗になる時刻があるのだろうか? 乗船以来これまでずっと続いてきた晴天も、そろそろ終わりそううだ。 メキシコ湾流のためか寒くないが雨は多いと聞く。 今日の寄港地はノルウエイのベルゲン。

入港は午前10時。 今日のツアーの予定は12時に港からバス1.5時間でヴォスに着き そこからベルゲン鉄道45分でミュルダールに。さらにフロム鉄道に乗り換えて 終点の手前のホーレイナ駅で下車、ハイキングしながらソグネフィヨルドの町フロムへ着くというもの。 フロム鉄道の車窓からの眺めは素晴らしい。峡谷の上から幾筋もの滝が落ちている。 途中停車したある地点では巨大な滝が目の前に流れ落ち水しぶきを浴びながら 見物した。
帰りは、往路で乗ったバスがフロムで待っていて、船まで2.5時間で帰った。 帰船リミット22時ぎりぎりであった。

ベルゲンはハンザ同盟以来の歴史ある都市だ。しかし世界遺産の旧市街ブリッゲンはゆっくり見られなかった。


6月6日(火)(第55日)
今日は”フィヨルド遊覧デー”である。 世界最大規模のソグネフィヨルドを通航する。長さ204km、 最深部の深さは1308mとのこと。

フィヨルド(VIK)から漕ぎだして行った男たち(VIKING)が世界史に大きなインパクトを 与えたことを思うと感慨深い。
フィヨルド遊覧時、7F前方のデッキが解放される(普段は立ち入れない)。
またネーロイフィヨルド遊覧中に 甲板に集まって集合写真を撮るという。 果たして何人集まるか?


6月7日(水)(第56日)
今日はマスカレードマスクをつけてダンスパーティーやファッションショーをするらしい。 そのためのマスクの販売や製作コーナー?もあるという。小生には関係のない世界だ。
また初心者社交ダンスの発表会もある。 これを機に社交ダンスの練習から手を引くことにした。
もともとその気はなかったし、日本に帰って続ける気もない。

バミューダまでの航路説明があった。 航路説明会は全員参加で7Fホール(ブロードウエイ)にてときどき行われる。 これから船はアイスランド・レイキャビクに寄港したあとグリーランドに行き(寄港はしない)、 バミューダに向かう。氷の張り具合によってコースが変わることもあるらしい。

夜、八木啓代さんのライブコンサートをきいた。 曲目はラテン系。メキシコや中南米で活躍中らしい。 彼女の名前は知らなかったがコンサートはよかった。 朝食時にたまたま隣り合わせた人だった。


6月8日(木)(第57日)
あさ3時ごろ目が覚める。窓の外は明るい。天気はよさそう。 ベッドの回りを整理してるうちに4時になる。いつの間にか雨が降り海も少々荒れている。 この海域の天気は変わりやすいようだ。

6時、ウォーキング用のポールを持って9Fに向かう。 海は荒れ気味、甲板は濡れており滑りやすく、風も強く寒いのでウオーキングは中止しコーヒーを飲む。 いつもならここで朝食をとるが今日は4Fレストランに行く。
4Fレストランは少しあらたまっており短パンやサンダルでは入れないことになっている。 ピアノの生演奏を聴きながら朝食をとる。


6月9日(金)(第58日)
快晴。6時に甲板に出てみる。船は入港作業中だ。 小さなタグボートが大きなピースボートを押している。 この旅最北の街レイキャビク(アイスランド)に来た。
空気がきれいなせいか景色がくっきりと見える。 オノヨーコのイマジン・ピースタワー(塔の台座?)らしきものも見える。

8時ツアーバスで”ブルーラグーン”に向かう。 近づくにつれて溶岩が広がっている。
9時着。さっそく水着に着替えて温泉につかる。 快晴のもと乳白色の湯を満々とたたえる巨大な露天風呂だ。日本ならさしずめ”万人風呂”とでも 名づけるところか。地熱発電によってできた温泉で、 湯の温度は38度、深さは1.5mくらい。
久しぶりにわが温泉リストにデータがひとつ加わった。

その後アウルバイル野外博物館(古い住宅を集めて保存展示)、 1986年ゴルバチョフ・レーガン会談が行われたホフディハウス、ハットグリムス教会を訪ねた。



6月10日(土)(第59日)
いつものようにノルディックウオーキングをしようと甲板に出たが、非常に寒く早々に船室に帰った。 今日は北極圏(北緯66.33度)まで北上する。
8時55分船内アナウンスでそこに到達したことを知る。 右舷ま近かに流氷が見える。船から漕ぎだした救命ボートが氷を採取して持ち帰る。 後日ウイスキーの水割りを作るらしい。

PM4時から八木啓代(のぶよ)さんの講演を聞いた。 テーマはずばり”森友・加計学園問題”。 彼女はミュージシャンでありながら作家でもあり 時事問題にも大いにかかわっているらしい。

ピースボート乗船以来日本ではわれわれの知らぬ間に、この問題は新たな展開をしたようで 八木さんはそれに関する政治動向、マスコミの報道など的確に分析してくれた。 各種記録を徹底的に隠ぺいする官僚、それに対する検察の態度などを告発している。


6月11日(日)(第60日)
今日から水彩画作品展が始まる(14日まで)。私が出した作品は”バレンシア”と”タリン”のスケッチ2点。
水彩画クラスの受講者の中から計120点くらい。寄港地でのスケッチなどひとり2点。
午後からオープン。

八木啓代さん指導の”満月の夕”を練習。 阪神大震災を契機にできた歌らしいが、これまで知らなかった。

夕刻にグリーンランドのフェアウエル岬沖を通過。北極海ともおさらばだ。
夜、バーで北極の氷で作った水割りを飲む。


6月12日(月)(第61日)
5時に目覚める。窓の外を見ると暗く 眼を凝らしてみないと海面が見えない。昨日までとの違いに驚く。 海はかなり荒れていて波が大きく船の揺れも激しい。
ノルディックウオーキングはできない。
インターネットにつないでホームページを更新しようとしたが荒天のせいかこれもできなかった。

最近自分のこのホームページの更新に時間を割いている。 ”私の定年後”という自分のホームページに”105日世界一周航海記”という項をもうけ、 旅行準備中からそして旅行中もすこしづつ更新してきた。
帰国後に一挙に105日の旅行を完成するのは負担か大きすぎる。 記憶がうすれるし、日常生活の中では日数もかかる。
したがってインターネットの環境は良くないながら、 航海中に日々更新していき、帰国したときはほぼ完成しているという 状態にしたい。
これまで掲載してこなかった写真も少しづつUPしたい。 しかしこれも結構難題である。

ホームページ(ウエブサイト)をこまめに更新することによって、毎日のこちらの船での状況がわかる。 メールやLINEがうまくいかず、このところ日本とも音信がとだえているが、 このホームページをみれば、私が毎日どんな生活をしているかがわかる。 もっとも日本在住の私の家族は私のホームページを見ないけど・・・
家族ではベルリン在住の長女がこのホームページをみている。 何人かの友人・知人も見てくれていろようだ。
見てくれる人がいると、作るほうにも張り合いができる。
ホームページが更新できればメールはできなくても差支えない。 (一方向のコミュニケーションだが)




6月13日(火)(第62日)
船はグリーンランドのフェアウェル岬を通過して、 いまはニューファンドラウンド沖にさしかかっている。 緯度ではかなり南下したけど今日は特に寒い。
海上にはあちこちに流氷が漂っている。 大きな氷(長さ約20m?)の塊がピースボートの近くにあることも・・・


6月14日(水)(第63日)
船内では多くの自主企画が活動しているが、今日はその成果の中間発表会がある。
”ブロードウエイ”がメイン会場で、私が出演した ”地理クイズ”と”わせねでや(コーラス)”など出しものは全部で26。 いろいろな趣味のグループがあるものだ。

1000人を超える人がいれば、その中にはいろいろな才能・特技・専門知識を持った人がいる。 その人たちが得意分野を披露し同好者が集い興味ある人に広める場として自主企画がある。 PBセンターに申し出て、時間・場所を決め船内新聞に掲載する。 希望者が多く場所・時間の取り合いになるという。

けさ使い捨てのカミソリでひげを剃ってるとき誤って 顎の下を切ってしまった。髭剃りはそこで中止。
自宅から持参の電気髭剃りが壊れて以来髭剃りには苦労する。

出航以来2か月以上たって髪ものびた。 帰国まで髪を放置するか、一度美容室で切ってもらうか思案していたところ、 知人のO氏が”髪を切ってくれる人がいる”というので、 ついでに自分も彼の部屋で切ってもらった。 うっとおしかった耳のあたりもさっぱりした。


6月15日(木)(第64日)
1週間ぶりくらいで天気が良く暖かい日となった。
9時から11時ころまで全員対象の避難訓練が予定されていたが、 急患がでて患者をカナダのハリファックスの病院にヘリで搬送することになったため 訓練は明日に延期となった。 急患をヘリで陸地の病院に運ぶのはこれで2回目である。 それ以外に3人が急病・けがで下船したようだ。


6月16日(金)(第65日)
午前に避難訓練があり、午後7回目の航路説明会があった。
2〜3日前までの寒さとは打って変わった暑さだ。


6月17日(土)(第66日)
晴れ。バーミューダ諸島8時到着、9時上陸開始。 当初セントジョージに入港の予定だったが、 そこで国際ヨットレースが開催中なので、 首都ハミルトンに入港した。 船から見える家々の屋根はすべて真っ白。 この島は雨が少なく屋根に降る雨水をその建物で使うのだそうだ。

午前中街を散策しカフェで5ドルのコーヒーを飲んで Wifiを少しやった。物価の高さは世界一とのこと。 午後は洞窟探検のツアーに参加する。
クリスタル洞窟は子供が偶然見つけた鍾乳洞だそうで地底の 遊歩道をたどっていくと幻想的な景色が広がる。 子供のころ何度か訪れた山口県の秋芳洞ににている。
帰る途中、砂の美しい海岸を散策した。 18時ハミルトンを出港。


6月18日(日)(第67日)
晴れ。朝7時半、船内放送があって、またまた急患が出て バーミューダに引き返すとのこと。

PM7時半ごろバーミューダ港湾付近で小さい船が来て熱中症?患者の 引き渡しを完了。再出発。


6月19日(月)(第68日)
ハミルトンから東ちづる、井高浩昭(ジャーナリスト)の2氏が水先案内人として乗船。 井高氏の”アメリカとキューバ”の講演を聞き”チェ・ゲバラ”(中公新書)をサイン入りで購入。

1823年のモンロー宣言以来、USAはアメリカ大陸に対するヨーロッパ諸国の関与を排除し、 自国の軍事的経済的影響力を拡大してきた。キューバはそれに最後まで抵抗した国であった。 しかしソ連邦崩壊があり、トランプ政権成立もあって、ラテンアメリカ諸国は困難に直面している。 ベネズエラもUSA覇権主義の標的になっており、現在政情不安に陥っているらしい。
ピースボート乗客も首都カラカスには個人では行かないよう言われている。



カラカス市民オーケストラの人たちはラグアイラで下船する。 それで8pmから乗客たちのコーラス、器楽コース受講者との合同コンサートがあった。 小生が参加したのは”大地讃頌”、”花は咲く”の2曲だった。


6月20日(火)(第69日)
もとの予定ではラグアイラ(ベネズエラ)に明朝9AM入港だが、 急患搬送のため入港は遅れて夜間になるらしい。 とすると21日の市内見学はできないことになる。


6月21日(水)(第70日)
ラグアイラ(ベネズエラ)入港は22時ときまった。 当然ツアーもすべて中止となった。
中南米解放の英雄シモン・ボリーバルゆかりの史跡を見ることが できなくなって残念。

伊高浩昭講演:革命家チェ・ゲバラの人生
伊高浩昭映像と対談:わが友、ウーゴ
八木啓代、加計学園問題、前川前文科次官記者会見映像


6月22日(木)(第71日)
昨夜13時間遅れで船は入港した。 朝、船のデッキから見たラグワイラの街はこれまで見たヨーロッパの街とは異なっていた。 港のあたりは似ているがその周辺は山の中腹まで住宅が積み重なるように建っている。

今日の予定は”エル・システマ”見学。 8時半バス2台で出発。10km南の首都カラカスへ。 そこは標高1000mの高地でラグワイラよりかなり涼しい。

まずエル・システマの本部へ。 エルシステマはベネズエラの音楽教育システムで貧困層の子供でも無料で音楽教育が受けられる。 これまで世界的に活躍するクラシック音楽家を出して来た。 本部建物は巨大でいくつかの本格的ホール、多くの練習場を擁する。 5つのオーケストラも持っているとのこと。
我々のためにメンバー6人のコンサートを開いてくれ、 オーケストラリハーサルも見学できた。

次に向かった別の練習場では子供たちが歓迎の 演奏会をしてくれた。 またピースボートからも日本から持参の楽器などをプレゼントした。
さらに市立劇場で最後のコンサートがあり別れを惜しんだ。


6月23日(金)(第72日)
あさ窓の外を見ると昨日と同じラグアイラ港の景色のままで驚いた。 船はとっくの昔に出港しているはずなのに。

PM1時ごろようやく出港した。 航路説明会での説明によると、マラカイボからくる給油船が ハリケーンの卵が発生したため遅れ、その結果給油作業が遅れたとのこと。

伊高浩昭講演:沖縄、かくも長き孤高


6月24日(土)(第73日)
昨日の出港遅れのため明日のクリストバル入港も3.5時間遅れて10時半になるという。
これでは寄港地での予定が大幅に狂ってしまう。

本日受講の講座
* パナマとパナマ運河の歴史(伊高浩昭)
* ドイツ国際平和村・・戦争で傷ついた子供たち(東ちづる)
* 音楽でたどるラテンアメリカの歴史・・キューバ音楽(八木啓代)
* おりづるプロジェクト報告・・ニューヨーク国連での活動(三瀬清一郎ほか)


6月25日(日)(第74日)
クリストバル(パナマ)は雨模様。時に雷雨。
当初予定より遅れて11:15集合、12時バス4台でパナマ運河鉄道コロン駅へ。 バス1台分の人が鉄道1車両にゆったり乗車。クラシックな雰囲気の豪華列車である。
ガツン湖畔を行く。もとは密林だった地域で湖の中に、水没した樹木の先端部分が多く見られる。 ガツン湖はまたパナマ運河の大きな部分を占め、運河を航行中の船も見かける。 約1時間でパナマシティ駅に着く。レストランで食事のあとは旧市街カスコ・アンティグオを徒歩観光。 バスでクリストバル港に戻る。途中で遠くに見た新市街は近代的なビルが林立している。 雨に降られずにすんで幸いだった。












6月26日(月)(第75日)
今日はパナマ運河航行の日。きのう鉄道でパナマ市に行ったが、それとほぼ並行したコースを今度は 船で行く。スエズ運河と違ってこの運河は62mの高さにあるガツン湖を通過するので 上り・下り各3か所の閘門(水のエレベーター)を利用する。長さ80km、通過所要時間は8時間。


今日も雨模様。中米はいま雨期なのでしかたない。いよいよ太平洋に入った。 明後日はニカラグアのコリントに8AM入港の予定であったが、遅れて3PMになるという。


明後日のツアーはすべて取り消しとのこと。


6月27日(火)(第76日)
井高氏の講演:ニカラグアの政治情勢、
       サンディニスタ革命の道のり

ハミルトン出港後の1人の患者の発生によって1000人を超える人たちの スケジュールは、2回のツアー取り消しなど2週間にわたって混乱した。
その埋め合わせの意味を込めて?ビンゴ大会をやるという。 つまらぬことをやるものだ。


6月28日(水)(第77日)
きょう参加予定だったツアー”サンディニスタ革命の道のりをたどる”が取り消しになったのは残念。
午後コリント(ニカラグア)入港後wi-fiをするつもりだったが、できる環境ではなかった。
ニカラグアは貧しいままだ。しかし地元の高校生たちは歓迎してくれた。

井高氏の臨時講演:グアテマラの情勢
         キューバ・グアンタナモ米軍基地

一部の金持ち以外の多くのひとびとや先住民が行動を起こし大きな力を持つようになると USAが介入してくる。ならず者たちに金や武器を与え軍事訓練を施して反乱をおこさせる。 その結果子供も巻き込んだ凄惨な内戦が何年も続く。 今はベネズエラが狙われているらしい。 中南米の人々が自由で平和で豊かな社会を実現できる日は来るのだろうか?


6月29日(木)(第78日)
アカフトラ(エルサルバドル)に着いた。 今日明日の2日間は今回のクルーズでの小生にとって唯一の1泊ツアー。 目的地はマヤ文明遺跡のティカルである。以前から行きたいと思っていたところだ。
並行してマチュピチュに行くツアーもあるがティカルを選んだ。

朝10時、バス2台で約60名がサンサルバドル空港へ。 チャーター機(AVIANCA)で70分、国境を越えグアテマラの奥地フローレスへ。湖の中の島になっていて、 ここも昔からマヤ族が住んでいたところ。いまはティカル観光の起点である。 ヤシの葉で葺いた屋根はマヤ族伝統。ふたたびバスで湖畔のホテルへ。


6月30日(金)(第79日)
朝食後7時半、バスでティカル遺跡へ。そこから3時間の徒歩観光となる。 ジャングルの中に作った道をゆく。 突如、高さ50mの1号神殿が現れた。中央広場をはさんで向かい合わせに2号神殿、 、さらに西に3号神殿があり中央広場の南北にアクロポリスと称して建造物群がある。 ガイドさんは100%マヤ族だそうで、彼の説明を聞いたあと付近を自由に見学する。

3号神殿からさらに西数100mに最大の4号神殿があり、階段を使って中ほどの高さまで みんなで上った。そこからの眺望はすばらしい。 ジャングルの中からいくつもの神殿がそびえている。
説明によると神殿ができたのはマヤ文明の最盛期で AD8世紀とのこと。その頃は周辺はジャングルではなかった。
フローレスをスペインの侵略者に破壊された マヤの人たちはティカルの存在をスペイン人に隠していた。そのためティカルは破壊をまぬかれ いつしかジャングルに埋没し忘れ去られてしまったようだ。

歩いていると現地の人たちとよくすれ違う。そんなとき
Hola!(やあ!)
Buenos dias!(おはよう)
Adios!(さようなら)
小さな子には・・・
Como te llamas?(お名前は?)
Quantos agnos tienes?(としはいくつ?)
Que bonita!(かわいいね)
などと声をかけたりする。


7月1日(土)(第80日)
中南米で予定した旅行は昨日で一応終了したが、 今日はアカフトラ(エルサルバドル)を出港した後、番外として プエルトケツアル(グアテマラ)に寄港して バスで世界遺産のアンティグアを訪れることになった。

アンティグアは1500mの高地にあり涼しく、周囲を3つの火山に囲まれた古都。中心部にはコロニア風の建物が立ち並ぶ。 バス10台を連ねて出発、片道2時間で到着。中央公園を中心に周囲を散策。 土産物を買うならここが最後なので皆買い物に余念がない。滞在時間3時間ののち船に戻った。

今回の地球一周クルーズで、あと1ケ所できれば訪問したかった国はキューバである (過去には何度かハバナに寄港している)。 もともと共産主義を目指してはいなかったが、USA への対抗上そうならざるを得なかった。
近隣諸国の民主化を許さないUSAの巨大な力を、この海域に来て改めて感じた。


7月2日(日)(第81日)
最近毎朝5時ごろ起きてインターネットに繋ぎホームページの更新作業をしている。 無線LANのアクセスポイントは船内の一定の場所に限られているが、 さいわい私の部屋はそこから近く、自分の部屋でもネットが利用できる。 これまで写真がなかなか載せられなかったが、なんとかできるようになった。
更新のためのPCでのローカル作業は前日にする。こちらのほうが手間がかかる。 そのせいか視力がますます低下したようにも思える。

船は太平洋を一路ハワイに向って進んでいる。ヨーロッパとも中南米ともおさらばし、 帰国の途についた感じだ。 10日間太平洋を航行し、ハワイで2泊したあと再び10日間の航行が待っている。


7月3日(月)(第82日)
これからさき実施される世界一周クルーズの紹介・PRがあった。 いま使っているオーシャンドリーム号は30年経って老朽化しているが、 2020年からエコシップと称する新しい船が就航するらしい。 総トン数5.5万トンなど今の約2倍。10本の巨大ソーラーマストを備えた完成予定のその 姿は異様である。


7月4日(火)(第83日)
最近船の中で風邪が流行っている。インフルエンザで隔離される人もかなりいるらしい。 咳をする人、マスクをしてる人。 ルームメイト2人はずっと前から風邪気味で1人はいま重症。小生ひとり元気。


7月5日(水)(第84日)
操舵室など普段乗客が入れない場所を、希望すれば数人づつ案内してくれるという。 3PM集合場所に行くと張り紙があって本日は中止とのこと。 その前に病人が出て担架で運ばれたとも聞く。それが原因だろうか?


7月6日(木)(第85日)
9日に”洋上大運動会”をするというので何日か前から準備が進んでいる。 乗客全員を生れ月によって”赤””白””青””黄”の4組に分けて優勝を競うという。 当然、若者が中心となるが、年寄りでも競技に参加する人もいる。 年寄りはやはり応援にのみ参加することにしよう。


7月7日(金)(第86日)
きょうは七夕だが天気はおもわしくない。 餅つき大会があった。 夜は明かりをすべて消したうえでデッキで夜空を見る企画もあったが 雨が降り出して中止となった。

この日、核兵器禁止条約が国連本会議において加盟国193か国のうち122か国の賛成で採択された。 おりづるプロジェクトのメンバーもニューヨークの国連本部に赴いて署名式に参画するという。
日本政府はこれに背を向けている。


7月8日(土)(第87日)
きょうはルームメイトの70歳の誕生日で、夕食時に7名でそれを祝った。 Happy birthday to you! の生演奏付きで、ワインとケーキがふるまわれた。


7月9日(日)(第88日)
きょうは洋上運動会の日だ。天気はまずまず。 何日も前から若者を中心に一部年配者も加わって準備と練習が行われてきたようだ。
昼休みを挟んで丸1日デッキで 赤/白/青/黄のチームに分かれて勝敗を競う。






















7月10日(月)(第89日)
105日の船旅もあと2週間となった。 数日前から風邪をひいてしまった。 体がだるく少し熱があり咳もでる。 周囲に風邪の患者が充満しているなかで1人元気であったが、ついに負けた。


7月11日(火)(第90日)



7月12日(水)(第91日)
あさホノルルに着いた。 船内で全員入国審査を受けたあと上陸許可が出た。 USAには生涯来ないつもりであったが、来てしまった。

港とは反対側にあるポリネシア・カルチャーセンターに 行くという2人組に同行することにした。 2時間ザ・バスに乗って12時着。
そこはポリネシア全体を敷地内に圧縮したようなレジャー施設で、 20人乗りくらいのカヌーに乗ってツバル、サモア、トンガ、 イースター島などを巡る趣向が中心となっている。 3時間後そこを出て往路とは別ルートで帰った。


7月13日(木)(第92日)
ハワイでの2日目。4人でダイヤモンンドヘッドにバスで向かった。 8時出発、アラモアナセンターで乗り換えて到着。 トンネルを抜けた旧火口原?に登り口があった。
10時、登山開始。 外輪山の内壁を上る形で高度を上げる。大勢の人が連なるように登っている。 途中から急登になり階段やトンネルがある。天気もよく 頂上は標高わずか232mだが360度見渡せる絶景であった。 下山後ビーチを散歩しながら3時半に帰船した。

2日間でザ・バスには何度も乗ったが、2.5ドルの均一料金で時間内なら2〜3度でも使えるので便利。


7月14日(金)(第93日)
延期されていたブリッジ(操舵室)見学ツアーの順番がようやく回ってきた。 見学者10名が9F最前方にある操舵室に入り、約40分間、設備・機器・仕事内容の説明を受ける。 今のシステムは高度にコンピューター化されており少数の乗員で運行されている。

昨夜、最後の寄港地ホノルルを出港した。あとは太平洋を渡って一路日本に向かうだけである。 重病人が出た場合、これまでは陸地に近かったためへりコプターによる搬送ができたが、 今後は太平洋を航行して八丈島あたりでようやくそれが可能となる。 それまでは諦めるほかないとのこと。

風邪の症状と思われるが、数日まえから右足太ももの後ろが痛い。 自然に治るだろうか? 肉離れだという人もいる。 これ以外の症状はなくなった。

10枚目のインターネットカードを買った。これで下船まで持ちこたえたい。


7月15日(土)(第94日)
早朝インターネットカードを使ってみておどろいた。 カウントがゼロになっている。昨日1度(5分くらい?)使っただけなのに。 終了の処置ができてなかったのに違いない。やむなく11枚目を購入。

毎日(時刻は不定だが)掃除人がやってくる。その時は住人みんな部屋を出る。 30分くらいあと戻ってくると掃除は終わっている。 ところがきょうの午後異変が起こった。 ルームメイトがいくつかの土産ものを入れていた紙袋2つがなくなっている。 問い合わせると知らないという。

ゴミと間違えて持ち去った可能性が高いから、すぐ探すよう求めるがなかなか動かない。 掃除人本人や上司などなどが部屋に来て交渉する。 双方立会いの下で、室内をくまなく探した。 結局ゴミの山?をジャパングレイス側が調べることになった。
問題が起こって数時間、ゴミを探し始めてさらに数時間、夜になって結果が分かった。 ゴミの中から件の土産がばらばらに出てきたという。


7月16日(日)(第95日)
長旅の最終章として”歌の祭典”があり、 その中でこれまで歌ってきた6曲を合唱した。

今夜、日付変更線を通過する。
神戸出港以来、地球を西に回り緯度15度ごとに時刻を1時間もどしてきた。 1日が25時間となり、地球一周により1日戻ってしまう。 それを調整して明日17日は消滅する。

時差企画”消滅する1日を取り戻せ”が午後10時から30分間行われた。 普段過ごしている24時間を30分に圧縮して演じてみようというお遊びである。 いろいろのグループがホールに集まり1回分を順番に1分で演じた。 ビデオの早送りのようなコミックになった。


7月17日(月)(第96日)存在せず(日付変更線通過)


7月18日(火)(第97日)
16日からいきなり18日になった。 これまで日本より遅かった時刻が突然早くなった。 気分も少し違う。

右足大腿部の肉離れ?が相変わらず痛く、体操やウオーキングもやめ、エレベーターを使っている。

地理クイズとは別人が映画クイズを始めたので参加してみた。 自分の知識でも十分通用しそうだ。




7月19日(水)(第98日)
18日から20日まで2回目の水彩画教室作品展を8F廊下でやっている。 小生、”ピースボート、セーヌ川を行く”、”ラグアイラ”、”オンフルール”の3点を出した。
     





7月20日(木)(第99日)
カジポン・マルコ・残月という変わった名前の水先案内人がいて、 ”芸術パラダイス”と称して広範囲のテーマで講演をしている。映像を多用したシリーズだが、
芸術はこんなにすばらしい、  ビートルズはなぜすごいのか?  クラシック音楽はこんなに素晴らしい! そのほか
世界遺産、爆笑落語傑作選、墓を訪ねて3千里、日本の伝統芸能、日本百名山、仏像鑑賞入門、 芸術と永遠の生命、日本軍が犯した戦争犯罪を学ぶ、障がいが障がいでなくなる時・・・

何回目かの避難訓練があった。全員が救命具をつけて所定の場所に集合し、点呼。防火扉の開閉テスト、 デッキに移動して整列・・・と救命ボートに乗り込む直前までの訓練をした。
船内放送に導かれてするのだが、避難訓練に限らず、日本語以外に英語、スペイン語、中国語、韓国語で繰り返すので 、時間がかかるしやかましい。

クルーズ乗船前の説明会で知り合った夫妻(枚方市在住)から夕食に招待されて飲みすぎ、 部屋に帰ったあと服のまま床で眠り込んでしまったようだ。


7月21日(金)(第100日)
おりづるプロジェクトの最終公演があり、その最後に合唱団が”花は咲く”を歌った。

帰国が近づき、みんな各グループごとに お別れ会をし、荷造りなど帰国の準備に励んでいる。


7月22日(土)(第101日)
8Fホール”バイーア”で洋上結婚式があり、合唱団が讃美歌を歌った。 以前のピースボートで知り合った若いカップルが結婚して、 新婚旅行としてこのたび再度乗船したらしい。 ”船内家族”たちに祝福された若夫婦である。

各サークルが集まってその全員を動画に撮影したりして記念DVDを作成するという。
下船説明会もあった。


7月23日(日)(第102日)
本日はパッキングデー。企画やイベントは少ししかない。

しかし地理クイズは3回ある。 寄港日でも”ゆっくりデー”でも、ゲリラクイズと称して時間と場所を見つけて盛んにやる。
このクルーズの全期間を通じて、地理クイズには大いに遊ばせてもらった。主催者の”しんちゃん”に多謝、

またコーラスについては終始精力的に指導してくれた”はなちゃん”に感謝します。


7月24日(月)(第103日)
横浜下船組は段ボールなどの配送荷物をきょう預ける。
ひと様の荷物を見ていると自分の荷物と比べていかにも多い、または大きい。 私の荷物は最小限である。持ち物の量は紙1枚単位で減らそうとする。 衣類は2〜3種類を洗濯して交互に着る。おしゃれとは無縁の、ほとんど着たきり雀。 10日の旅行も100日の旅も持ち物はほとんど変わらない。昔の山屋の習性か。


7月25日(火)(第104日)
横浜に戻ってきた。暑い。 海から富士山が見えることを期待したがダメだった。
メールができるようになった。 いくつかのメールが2〜3週間も前から来ていて、それが初めて読めた。

妻にケータイで電話した。 留守中いろいろあったようだ。救急車での妻の一時入院、遠方の親戚の病気見舞い、葬式など。

横浜下船者が順次下船していった。
12時半ころ10Fデッキで出港式が始まった。 埠頭の横浜下船組とデッキの神戸下船組が呼応して”わせねでや”を歌った。 またカラーの紙テープもデッキから舞った。
そんな中を1時ごろ船は出港した。

財布を無くした。昨日今日とバタバタしたからその間にどこかで落としたに違いない。 しばらくふさぎ込んでいたが念のためレセプションに聞いてみた。 するとすぐ出てきた。誰かが拾って届けてくれたのだろう。感謝。


7月26日(火)(第105日)
神戸帰港の日。4人部屋にひとりぼっち。
あさ起きると右側に陸地が見える。テレビの画像と比べると、あれは潮岬あたりか? 曇っていてよくわからない。

天気について言えば今度のクルーズはとても天気に恵まれていた。 傘をさしたことはシンガポールでの1時間くらい。 ラッキーであった。

乗船者の年齢構成:60〜70代=50%、20〜30代=20%、その他=30%
男女別構成:女性=55%、男性=45%
   (以上、小生のカンによるもの)
リピーターの割合:4人に1人

最後に関西地理クイズあり

2PM着岸、4PM猛暑のなかに下船。

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帰宅後すぐになすべきこと
*OSC練習 *眼科受診 *散髪 *インターネット再構築


(完)



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