旅行記(2012年9月) モスクワ〜黄金の環〜Stペテルブルグ

 8日間のロシア旅行に参加した。
 ロシアを訪れるのは旧ソ連時代の1984年以来の28年ぶり。 あれは初めての海外旅行であった。 井上靖の小説(楼蘭、敦煌、西域物語、蒼き狼、おろしあ国酔夢譚)を読み、 TVではNHKのシルクロード紀行をやっていたあの頃。 その時の経路は新潟からハバロフスクへ。そこからいっきに中央アジア(西トルキスタン) に飛んだ。
 それを皮切りにトルコ(1987)、中国(1993河西回廊、東トルキスタン) とシルクロードを巡った。 というわけでロシアについてはハバロフスクしか知らない。 いつかはモスクワ、Stペテルスブルグなどロシアの核心部を訪れたかった。

 9月8日夜、関空に18名が集合してエミレーツ航空でドバイ経由モスクワへ。
9日午後4時、モスクワのドモジェドヴォ空港に降り立った。 関空からドバイまで10時間、5時間待った後、 ドバイからモスクワまで5時間、計20時間かかったわけだ。 気温は8度。炎暑の日本から来た身にはこたえる。 スーツケースを受け取るのに時間がかかり、バスで宇宙飛行士記念博物館に着いたのは6時。 それでもまだ明るい。 スプートニク、ユーリ・ガガーリンのボストーク1号、テレシコーワの”私はかもめ”など 懐かしい名前に再会。そこからホテル・ イズマイロヴォ・アルファへ。一人参加であるが予期に反して部屋は広く快適であった。

 翌10日ほとんどスキーのいでたちでモスクワ市内観光(バス)へ。 ガイドの若い女性ゾーヤさんは日本語で一生懸命説明してくれる。 まず雀ガ丘へ。 ここで市内を一望したあとモスクワの中心、クレムリンに向かう。 "クレムリ"は城塞を表す一般名詞であって各地に存在する。
中央のウスペンスキー大聖堂はロシア正教の中枢であり歴代ツァーリの戴冠式が行われたところで、 たくさんのイコンを擁している。
武器庫は実際は歴史博物館とでもいうべきもので数々の宝物、王冠、衣装、馬車が所狭しと並んでいる。

 クレムリンの正面外側は”赤の広場”で、聖ワシリー寺院はモスクワと言えば これを思い出す。高さも大きさも異なるカラフルなタマネギ型円蓋9基からなる。 内部では男性4名で聖歌を歌っていたが残響もあってみごとなハーモニーであった。 レーニン廟は外から見ただけ。巨大なグム百貨店は一つの建物というより アーケードのある商店街のようであった。
 午後はモスクワ川クルーズを楽しんだ。

 11日、今日・明日は”黄金の環”巡りである。 モスクワ北東には12〜13世紀に栄えた古都が点在。 それらをつなぐと環状になることから 黄金の環というらしい。
まずはウラジーミルに向かう。バスに乗ること3時間半、 途中、ダーチャが多く見られる。最近のダーチャは定住型に変わってきている由。
 黄金の門に至る。かつての城壁の名残もある。 ウラジーミルは12世紀から始まりその全盛期にはキエフルーシの首都であった。モンゴル軍に蹂躙され衰えて モスクワに首都が移される前までは ここのウスペンスキー大聖堂はロシア最高の地位にあった。
 その裏手は展望が開けシベリア鉄道も見えた。


 昼食後スズダリに向かう。スズダリもかつて都がおかれており、 クレムリの土塁が残りその上を歩くこともできる。 白い壁に青い丸屋根の教会などが点在し、町全体が牧歌的で美しい歴史博物館のようだ。 行きたかったキジ島の教会に似た木造教会もある。ラジジェストヴェンスキー聖堂は特に美しい。 歴史地区からほど近い今夜の鄙びたホテル、ツアーセンター・リゾリットで夕食。 ナナカマド酒はうまかった。

 12日、セルゲエフ・ポサードに向かって8時出発。 途中予定外のアレクサンドロフのクレムリに立ち寄る。 ここでイワン雷帝が17年住み、息子をここで撲殺したところでもある。
 その後セルゲエフ・ポサードに到着。 入れ子人形マトリョーシュカの発祥地だそうで工房で絵付け体験をする。 絵の具や筆が用意されていて見本を見ながら生地のままの人形に色を付ける。
 トロイツェ・セルギエフ大修道院がすばらしい。

 モスクワの空港に戻って更に空路1時間半でサンクトペテルブルグへ。 ホテルクラウンプラザ・サンクトペテルブルグは空港から近い。 ここも立派なホテルであった。遅い到着のため夕食は箱入り弁当を自分の部屋で食べる。

 13日、今日はペテルブルグ南の郊外のエカテリーナ宮殿に。 ガイドはこれまでとは別人のゾーヤさん。こちらは年配の女性でなかなか博学だ。 第2次大戦中はレニングラード包囲戦を経験したとのこと。 3年近くドイツ軍に包囲攻撃され70万の死者を出し、しかもその多くは餓死者であった。 ホテルからモスクワ通りを北上中、ドイツ軍がここまで来たという記念モニュメントもあった。

 エカテリーナ宮殿はツァールスコエセロー(ツアーリの村の意、今はプーシキン市)にあり 大広間で大黒屋光大夫がエカテリーナ2世に謁見し、帰国を嘆願したことで日本人にも有名である。 修復された琥珀の間は一番のみどころ。

 午後はペテルゴフへ。Stペテルブルグ西郊のペテルゴフにピョートル夏の宮殿がある。 ヴェルサイユ宮殿を模したものでべりリン郊外のサンスーシー宮殿にも似ている。 階段状の滝と多くの噴水や彫刻。滝の水はまっすぐ流れてフィンランド湾にそそぐ。 またいたずらの噴水もあり、その下を走りぬけようとしたが水を頭から被ってしまった。
夕食はビーフストロガノフ、期待していたがどうっていうことはなく拍子抜けした、



 14日、今日も午前中バスで市内巡り。Stペテルブルグはピョートル大帝が”ヨーロッパへの窓”として 18世紀初頭から建設にかかった町でその橋頭堡がペトロパウロスク要塞であった。
 ここを見たくてゾーヤさんに頼み(予定コース外であったが)周辺をバスで巡ってもらい、 さらにロシア10月革命の口火を切って冬宮を砲撃した巡洋艦オーロラ号も真近かに見た。







 そのほか聖イサク寺院に。金色に輝くドームの部分が展望台になっているらしいが、 外から見て写真を撮るだけ。 そのまま歩いてデカブリスト広場を通ってネヴァ川へ。 ピョートル大帝の青銅の騎士像は巨大な花崗岩の上にあった。
 アレクサンドル2世が暗殺された跡に建てられたという血の上の救世主教会も外から写真を撮るだけ。 ここは珍しく純ロシア風教会だ。 バロック、ロココ、クラシック、折衷式など さまざまな様式(区別は難しいが)軒を連ねており、 運河が縦横に走り、ネフスキー通りなどがそれに交差する。

 午後はいよいよエルミタージュ美術館見学。ただしあまり時間がない。 ここは元はロマノフ朝皇帝の冬の宮殿などで、宮殿だけでも十分見ごたえがある。 エルミタージュとは隠れ家の意味だそうで、エカテリーナ二世のコレクション が母体となっている。
 見学者が多く個人ではまず入れなさそう。 ガイド付きの団体もひしめいており、それらをスムーズに裁くため ゆっくり見させてもらえない。まず豪華絢爛の”大使の階段”を通って二階へ。 ロシア、イタリア、オランダ、スペイン美術から近代フランス絵画へとあわただしく巡った。


*******************************************************************  こうしてロシア旅行を終えて思うことは 時間の余裕がなかったことである。特にモスクワとStペテルブルグにおいて。
 ホテルはよかったが旧市街から遠く離れていて、 ホテル周辺の街の中心をひとり散歩することができなかったのは残念である。
 St.ペテルブルグではゴリキーの"外套"の主人公アカーキー・アカキエヴィッチ・バシマチキンが 一張羅の外套を奪われ、失意のうちに死亡し、幽霊となってさ迷ったのは どのあたりであろうか?・・・などとそんな散歩がしたかった。

 またSt.ペテルブルグのゾーヤさんの話をもっと聞きたかった。 独ソ戦での筆舌に尽くし難い苦しみ、スターリン独裁時代、その後の混乱などについて・・・

 ロシアについて良いイメージを持っている日本人は少ない。 シベリア抑留、旧満州での逃避行、古くからある北方からの脅威などが根拠であろう。
 しかしプーシキンなどのロシア文学、大黒屋光大夫の物語、 ”菜の花の沖”の高田屋嘉兵衛のロシアとの交流などを考えれば、それは修正を要すると思う。
 またロシア革命後、日本はシベリアに7万の兵を出し、奥地まで侵入したうえ後に中国で したような蛮行を繰り返した上、各国から非難をあびてようやく4年後に撤兵した。 このことはあまり知らされていない。

 また今回のロシア旅行で手違いや効率・サービスの悪さなどいろいろ経験した。 しかし外国に行けば普段と同じように物事がすすまないことは十分ありうると思う。 もっと懐を拡げて訪問した相手国の人たちに温かい眼を向けたいものだ。

 駆け足で慌ただしい旅行ではあったが、ともかく念願のロシア旅行を果たせた。 ほんのわずかではあるが、実際に現地に行ってこの目で見た。 これを核として今後もロシアのことを考えたい。

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